1971年12月24日、私は南米ペルー共和国の首都リマの空港で会社の同僚二人と飛行機の到着を待っていた。街はクリスマスイブでにぎわっていたが、単身出張の我々には何もやることのないこの期間を利用して、サイトサーベイ(プラント建設予定地調査)の計画を思い立ってのことである。プラント建設の契約交渉のためリマに来てから既に2ヶ月近く経っていた。建設予定地(サイト)はそこから数百キロ北の、エクアドル共和国国境に近いタララという辺境の地にあった。飛行機はIQUITOSというアンデス山脈を越えたアマゾン川沿いの町迄往復してリマに戻って来ることになっていたが、既に到着予定時間を2時間も過ぎているのに機影は見えない。日本と違って飛行機がダイヤから遅れる事は日常茶飯事とはいえ、度が過ぎている。何かあったに違いない、と思ったが飛行場内では何の放送もない。3時間も過ぎた頃からさすがのんびり屋のペルー人も帰り始めたので、我々もひとまずその日はあきらめて帰宅した。ところが翌朝現地の新聞で、その飛行機が雷と乱気流に巻き込まれアンデス山脈の密林に墜落した事が解った。新聞は概略以下のような事を報じていた。
「12月24日午後0時36分頃、ペルー・リマ発同国プカユパ経由同国イキトス行きLANSA(Lineas Aereas Nacionales SA) ペルー航空(本社:リマ)508便ロッキード188Aエレクトラが巡航中に空中分解し、同国ワヌコのプエルト・インカ近郊のジャングルの中の山岳地帯に墜落した。」
我々一同が大きなショックを受けたのは言うまでもない。しかし我々がそれ以上に驚愕したのはその10日後に以下の報道を知ったときである。
「先日のLANSA墜落事故の唯一の生存者である17歳の女性乗客が、事故後10日目にジャングルの中でハンター3名により発見された。女性は発見されるまでの10日間、風雨に晒されながらジャングルをさまよい歩いていた。事故機の残骸は事故後14日を経て発見されたが、墜落現場の状況から、墜落直後には10名以上が生存していたものとみられ、捜索救助活動の遅れが被害を拡大した。」
この衝撃的なニュースは世界中を駆けめぐったが、地元ペルーではおよそ1ヶ月、連日の様に現地の新聞を飾ることになった。生存者の女性はドイツ人であったが、父親がアウトドアライフのベテランで、父親から何度かその手ほどきを受けたのがこの生存につながったらしい。わずか17歳の少女が、毒蛇や毒虫のうようよした、うっそうとして昼間も日の射さないたジャングルを10日間も歩いている様子は、想像しただけで鳥肌が立つ思いである。この事件はその後本として出版されたので記憶されている人もおられると思う。
海外出張では、日本にいたらまず経験出来ないような様々な出来事に遭遇する事があるが、この事件は今でも昨日の事のように思い出して忘れることが出来ない。
http://www.kiu.ac.jp/mt/mt-tb.cgi/488
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この話は私が中学2年生の時の英語の教科書「Sunshine English Course」に載っていました。
「Rain was hitting myself.」という英文で始まり、なにもできない絶望・生還できるだろうかという不安・生への渇望・そして奇跡の生還という一連のストーリーでつづられていたことを今でも覚えています。
その中に次のような意味の言葉がありました。
「その時、父の言葉が頭をよぎりました。『小さな生き物に気をつけなさい。彼らはときどき大きな生き物よりも危険なことがある。変な果物を食べてはいけないよ。悪い水は飲むな。ジャングルから脱出するには小さな流れを見つけなさい。小さな流れはやがて大きな川になる。」
はな | 2008年5月21日 21:59 | 返信
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