ウソというのは、日々の生活をドラマチックにする小道具だと思います。そう思いませんか?
相手のウソを見破ろうと必死になるリアル。自分のウソがばれないように、心に汗をかきながら平常心を装う空虚。ウソをめぐる葛藤ほどスリリングなことはないのでは・・・・・。
しかし、マジックにだまされて大喜びすることもあるけれど、人の生き死にかかわるウソとなると、これは真剣に考えて見なければなりません。ウソ(虚偽)なのに本人は「本当」のことと信じ込む話です。
奇妙なタイトルですが、榎本博明『記憶はウソをつく』(祥伝社新書、2009年)は、まじめなウソの話を解説してくれます。まずは、目撃者の証言のウソです。
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「目撃証言があてにならないとはわかっていても、何人もの目撃者が同じ人物を犯人だと同定した場合、だれもが信憑性の高い判断だと思ってしまう。だが、それは非常に危険な態度であるかもしれない。目撃者が多いからといって、その証言が信用できるというわけではないことを示す事例がたくさんある。
海外の冤罪事件の歴史をみると、合計14人の証人がある人物を犯人として識別したのに、後に真犯人が現れたり、17人の証人が被疑者を識別したのに、後日誤認であることがわかったり、7人の証人が同じ人物を犯人と識別したため陪審員は有罪を評決したのに、後日真犯人が現れたりといったことが現実に起こっている。この他にも、何人もの目撃証言があったにもかかわらず、その判断が間違っていたという事例には事欠かない」(125~126ページ)。
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最後、「・・・事欠かない」とありますが、それは困ります。「・・・事欠いて」ください。
でも、どうしてそんなことが起こるのでしょうか。実は、その理由、私たちの"記憶"の中にあるそうです。つまり、記憶がウソをつくのです。これを解明するのが"日常記憶の心理学"であり、"記憶の再構成理論"です。そうです、記憶というのは事後においてあるがままに写実されるかのごとく刻印されるのではなく、事後におけるさまざまな情報によって修正されたり、「補完」されたりして再構成、つまり"似て非なるもの"へと再構成される場合があるというのです。
「俺達の若いころはな・・・」とか、「昔は人情というものがあってな・・・」というような、過去を無条件に美化するような「記憶」は、間違いなく「再構成」した作品です。これを歴史観にまで拡張して、江戸や明治の「記憶の再構成」までする文化人もいます。
それはともかく、目撃証言の立場から「ウソ」をつくのはあってはならないことですが、犯人と言われた本人が「ウソ」の自白をするというのは、なかなか理解できません。あるはずのないことが、現に起こっているのです。
足利事件で菅家利和氏は、無実の罪で17年の服役を余儀なくされました。有罪の根拠は誤ったDNA鑑定と自白です。
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「この受刑者の場合も、いくら犯行を否定しても聞き入れてもらえず、DNA鑑定の結果まで持ち出され、
『お前がやったんだ』
『早く話して楽になれ』
と責め続けられ、心細くなり、どうにもならない気持ちになって、
『やりました』
と言ってしまったという。
そうしなければ取調べが進まず、休むことも眠ることも許されずに責め続けられるのである」(59ページ)。
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ところで、重要なのは「やりました」という自白の、その後です。
目撃証言の「ウソ」は、少なくとも本人の「記憶の再構成」によって生まれた意図せざるウソですが、自白の「ウソ」は権力による「記憶の再構成」が行われたという点で重圧、重症です。
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「いったん自白すると、次には犯行の手口や状況、動機などを説明していかねばならない。そんなことまで話すことができたのだから、犯人に違いないと素人なら思いがちだが、一概にそうとも言えないのだ。取り調べにおいて、アリバイを問われ、自白を強いられる問答の中に、犯行の手口や状況がほのめかされることがあるからだ」(59ページ)。
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ほのめかして誘導し、「記憶を再構成」する手法はNG, No Good です。企業の場合でも、組織による「記憶の再構成」がおこなわれています。これもエヌジーです。
舌を抜かれませんように!
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